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思想

幸せは、一度きりじゃない。思い出すたびに、もう一度味わえる

幸せは一度きりではなく、思い出すたびにもう一度味わえる。ただし思い出は勝手には戻ってこないので、写真1枚や自分の一行という手がかりが要る。「その日うまくいった3つ」の研究や回顧の味わい方の研究を、効果の大きさまで正直に添えて書きます。

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「幸せは、一度きりじゃない」全5回シリーズの第2回です(① 気づいた回数だけある/② 思い出すたびに、もう一度味わえる/③ いまの社会は、たぶん「バグって」いる/④ AIの「それっぽい言葉」から、自分を守る/⑤ 自分のデータで、自分の幸せを考える)。

子どもが、初めて自分の足で立った日。友人と、時間を忘れて長電話した夜。旅先の宿で食べた、なんでもない朝ごはん。

その幸せは、その日限りのものでしょうか。

私は、違うと思っています。1ヶ月後に思い出しても、1年後に思い出しても、たぶん50年後に思い出しても、その幸せは、もう一度、再生する。思い出すたびに、少し形を変えながら、何度でも味わえる。

前回、「幸せは、起きた回数ではなく、気づいた回数だけある」と書きました。今日は、その続きです。気づいた幸せは、一度きりでは終わらない、という話です。

幸せは、消費されない

物は、使えば減ります。お金も、使えば減る。でも、思い出は減りません。

むしろ、思い出すたびに、輪郭が少し変わります。子どものころは何とも思わなかった家族の食卓が、大人になって思い出すと、まるで違う重さで迫ってくる。同じ出来事なのに、思い出す側の自分が変わっているから、見える面が変わる。一つの幸せの中に、いくつもの幸せが折りたたまれている。

ここで、私たちが無意識に持っている前提を、ひとつ疑ってみたいのです。

「幸せは、一度きりだ」という前提です。

この前提に立つと、幸せは「起きた回数」で数えることになります。今年、いいことは何回あったか。先月は、何回あったか。そして、数えはじめると、たいてい足りなくなる。いいことは、そんなに頻繁には起きないからです。

でも、前提を変えるとどうなるか。幸せは、「起きた回数」と「思い出した回数」の掛け算だと考えてみる。起きた回数は、なかなか増やせません。でも、思い出す回数のほうは、自分の側で増やせる。

同じ人生でも、この前提の違いだけで、幸せの総量は、ずいぶん変わってしまうのだと思います。

思い出は、勝手には戻ってこない

ただ、ここに落とし穴があります。

記憶は、自動では再生されません。どれだけ幸せな一日でも、何の手がかりもないまま、ある日ふと戻ってくることは、あまりない。思い出には、取り出すための「手がかり」が要ります。

たとえば、写真1枚。一行の言葉。あのとき流れていた音楽。同じにおい。手がかりに触れた瞬間に、その日がまるごと戻ってくる、という経験は、誰にでもあると思います。

なかでも強い手がかりは、その日の自分自身の言葉です。「今日はここまで来られた」「また来たい」——後から読むと、そのときの自分の温度ごと戻ってくる。他人がきれいに書いた文章より、自分の雑な一行のほうが、はるかに強い。

だから私は、記録というものの役割を、少し違うふうに考えるようになりました。記録は、「残すため」にあるのではない。もう一度味わうための、手がかりを置いておくためにある。日記とは、未来の自分に向けて、幸せの手がかりを毎日ひとつずつ置いていく行為なのだと思います。

研究でも、少しだけ裏づけがあります

この話は、私の感覚だけではありません。心理学の研究にも、いくつか、近いものがあります。正直に、効き目の大きさまで含めて書いておきます。

ひとつは、「その日うまくいったことを3つと、その理由を書く」を1週間続けてもらった研究です(セリグマンらが2005年に発表したものです)。続けた人たちは、数ヶ月後まで、幸福感が少し高い状態が残りました。一方、同じ研究の中で、一度きりの大きな感謝の行為は、直後は強く効いたものの、数ヶ月で元に戻っています。一回の大きな出来事より、小さな振り返りの積み重ねのほうが、残ったのです。

もうひとつは、「良かったことを思い返す」ことについての研究です(ブライアントらの2005年の実験)。写真などの記念品を眺めるよりも、頭の中でその体験をもう一度なぞったほうが、幸福感の上がり方が大きかった。ただし、記念品を眺めるだけでも、何もしないよりは上がっています。写真は手がかりであって、本体は「思い出すこと」そのもの。この結果は、私の感覚とよく合っていました。

ここで、はっきり書いておきたいことが二つあります。

ひとつ、こうした効果の大きさは、研究の言葉でいえば「小さい〜中くらい」です。「これをやれば幸せになれる」というスイッチではありません。もうひとつ、深くつらい時期にいる人に「幸せを見返しなさい」と言うのは、かえって傷つける場合がある、という指摘もあります。全員に、いつでも効く方法ではない。

言えるのは、ここまでです。思い出すことには、たしかに小さな効き目があり、その回数は自分で増やせる。それで十分だと、私は思っています。

「見せるための記録」と、「自分のための記録」

ところで、記録なら、SNSにも毎日たくさん流れています。あれも記録ではないのか。

私は、少し違うものだと思っています。「見せる」が入った瞬間に、記録には評価が混ざります。いいねの数、誰かとの比較、どう見られるか。それ自体が悪いのではありません。ただ、もう一度味わうための手がかりとしては、雑音が多い。何年か後にその投稿を見返したとき、戻ってくるのは、その日の幸せというより、その日の「見られ方」だったりする。

自分のためだけの記録は、盛らなくていい。うまく書かなくていい。「何もなかった日」の、湯気の写真を残せる。そして、後から効いてくるのは、たいてい、そういう写真のほうなのです。誰にも見せる予定のない一枚が、いちばん素直に、その日を連れて戻ってくる。

「一度きりじゃない」と知ってから、起きること

幸せは一度きりじゃない、と考えるようになってから、私の中で変わったことが二つあります。

ひとつは、一日の見え方です。今日の小さな幸せは、「今日限りのもの」ではなく、「これから何度も味わう、最初の一回」になった。そう思うと、コーヒーがおいしかった、というだけのことに、少し先まで続く価値が生まれます。

もうひとつは、記録に対する構えです。うまく書く必要はない。あとで思い出せる手がかりが、ひとつ残ればいい。写真1枚で、十分。この「十分」が分かってから、記録は義務ではなく、未来の自分への、小さな仕送りのようなものになりました。

おわりに

幸せは、一度きりじゃない。思い出すたびに、もう一度味わえる。そして、思い出すための手がかりは、自分で置いておける。

これだけ単純なことなのに、私たちはなぜ、それをやれないのでしょうか。手がかりを置く時間も、思い出す時間も、なぜこんなに取れないのか。

次回は、その理由を書きます。私は、いまの社会の仕組みが、ある意味で「バグって」いるのだと思っています。

私が作っている日記アプリ「DoubleHub(ダブルハブ)」は、写真1枚と気分ひとつで日記が残る作りにしています。うまく書くためではなく、あとから思い出すための手がかりを、毎日ひとつ置いておくためです。1週間前や1ヶ月前の同じ日を、ダブル(もう一人の自分)が持ってきてくれるのも、思い出は勝手には戻ってこない、と知っているからです。(アプリの話は → DoubleHub のページ


次回:③ いまの社会は、たぶん「バグって」いる

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