「幸せは、一度きりじゃない」全5回シリーズの第1回です(① 気づいた回数だけある/② 思い出すたびに、もう一度味わえる/③ いまの社会は、たぶん「バグって」いる/④ AIの「それっぽい言葉」から、自分を守る/⑤ 自分のデータで、自分の幸せを考える)。
夜、布団に入って、一日を振り返る。そして、こう思う。
「今日、いいことなんて、何もなかったな」。
私にも、そういう夜がたくさんありました。仕事をして、移動して、スマホを見て、寝る。特別なことは何もない。幸せと呼べるようなものは、どこにもなかった気がする。
でも、少し丁寧に思い出してみると、話が変わります。朝のコーヒーが、なぜか妙においしかった。子どもが、意味の分からない歌を歌っていた。帰り道の空が、いつもより少しだけきれいだった。誰かが、ドアを押さえて待っていてくれた。
どれも、たしかに起きていました。ただ、起きた瞬間に、気づく前に流れていった。それだけなのです。
幸せが「ない」のではなく、「流れている」
いまの私たちの一日には、外から投げ込まれてくる情報が、あまりにも多い。SNSのタイムライン、動画の自動再生、ニュースの速報、アプリの通知。目を開けている時間のかなりの部分を、誰かが用意した情報を受け取ることに使っています。
ここで、ひとつ、あまり言われないことがあります。外から来る情報は、気づいてもらうために作られている、ということです。見出しは目を引くように、サムネイルは指を止めるように、通知は開かれるように、それぞれ職人が調整している。
一方で、足元の小さな幸せは、何も主張しません。朝のコーヒーは、自分を見てほしいとは言わない。空は、通知を送ってこない。
主張する側と、主張しない側が、同じ頭の中で場所を取り合ったら、どちらが勝つかは決まっています。小さな幸せは、音量が小さい。派手な情報の隣に置かれると、聞こえなくなる。
幸せが少ないのではなく、幸せの音が、ほかの音にかき消されている。私は、そう考えるようになりました。
幸せは、「起きたかどうか」より「気づいたかどうか」
もう一歩、踏み込んでみます。
幸せというものは、出来事そのものの中にあるのでしょうか。それとも、その出来事に気づく行為の中にあるのでしょうか。
同じ一日を過ごした二人がいたとします。片方は、朝のコーヒーがおいしかったことに気づいて、一瞬だけ「いいな」と思った。もう片方は、コーヒーを飲みながらスマホを見ていて、味を覚えていない。二人に「今日は、いい一日でしたか」と聞けば、答えは分かれるはずです。
出来事は同じです。違うのは、気づいたかどうかだけ。
だとすれば、「最近、幸せが少ない」と感じている人の多くは、幸せが少ないのではありません。気づく回数が減っているのだと思います。そして気づく回数は、出来事の数と違って、自分の側で変えられる。
これは、ものすごく地味な発見ですが、私にはかなり大きな発見でした。幸せを増やそうとすると、たいてい何かを買ったり、どこかへ行ったりする話になります。でも、気づく回数を増やすのに、お金はほとんど要りません。
気づく回数を、減らしているもの
では、何が気づく回数を減らしているのか。
情報の「量」そのものではない、と私は思っています。本を一日中読んでも、こうはならない。減らしているのは、反応を求めてくる情報の量です。いいねを押すか、続きを見るか、買うか、閉じるか。一つひとつは小さな判断でも、一日に何百回も繰り返せば、判断する力は確実に削られていく。
以前、「情報疲れ」という話を書きました。情報に疲れるのは、量が多いからではなく、自分に合わないものを断り続けることに疲れているのだ、と。あの疲れが積み重なった夜には、もう、コーヒーの味に気づく余力が残っていません。
それから、もうひとつ。夜の30分を、なんとなくスクロールに使うと、その日にあった小さな幸せを「思い出す時間」が消えます。思い出されなかった幸せは、翌朝には、もう取り出せない場所に行ってしまう。起きたことは事実なのに、なかったことと、ほとんど変わらなくなる。
私は、ここが一番もったいないところだと思っています。この話は、次回にもう少しちゃんと書きます。
気づきの賞味期限は、驚くほど短い
もうひとつ、あまり意識されないことがあります。気づきには、賞味期限があるのです。
コーヒーがおいしかった、という小さな出来事は、その場で一瞬「いいな」と思えば、ちゃんと自分のものになります。でも、その一瞬を逃して次の情報に気を取られると、数時間後にはもう、思い出そうとしても出てきません。大きな出来事は、放っておいても残ります。小さな幸せは、気づいたその場でしか、拾えない。
だから、気づく回数を増やすには、「週末にまとめて振り返る」では間に合わないのです。その日のうちに、できれば流れていく前に、一度だけ立ち止まる仕組みが要る。そして、そのときに小さな手がかりをひとつ添えておけば、その幸せには、あとから何度でも戻ってこられる。この後半の話は、次回にゆずります。
「何もなかった日」の写真を、撮ろうとしてみる
ひとつ、私自身の小さな経験を書いておきます。
私は日記のアプリを作っていて、自分でも毎日使っています。写真を1枚だけ残す日記です。それを続けていて、気づいたことがありました。
「今日は何もなかった」と思う日に、それでも写真を1枚撮ろうとすると、何かは、必ずあるのです。
夕飯の湯気。机の上の、猫の寝顔。ベランダから見えた雲。撮る対象を探した瞬間に、その日の中にあった「いいもの」が、初めて視界に入ってくる。撮る前は、本当に何もない一日だと思っていたのに。
写真を撮ることが偉いのではありません。「探す」という行為が、気づく回数を強制的に一回、増やしてくれる。それだけの話です。でも、その一回があるかないかで、一日の終わりの感触は、はっきり違いました。
これは、意志の問題ではありません
念のため書いておくと、「もっと足元の幸せに目を向けましょう」と言いたいのではありません。そういう説教は、私自身、聞くたびに少し疲れます。そして、効きません。
気づく回数を減らしているのは、あなたの心がけの問題ではなく、環境の設計です。気づいてもらうために作られた情報に、朝から晩まで囲まれている。そこで「気づけないのは自分のせいだ」と思うのは、少し不公平です。
気づく回数は、根性ではなく、仕組みで増えます。写真を1枚撮る、というのはその仕組みのひとつにすぎません。仕組みの話は、シリーズの後半で、私が実際に作っているものを含めて書きます。
今日、持ち帰ってほしいのは、ひとつだけです。
「何もなかった」と思った夜こそ、気づく前に流れていったものが、いちばん多い夜かもしれない。
おわりに
幸せは、起きた回数ではなく、気づいた回数だけある。私はいま、そう考えています。
そして、この考え方には、続きがあります。気づいた幸せは、その日限りのものではない、という話です。子どもが初めて立った日の幸せは、1ヶ月後に思い出しても、1年後に思い出しても、もう一度、再生する。
幸せは、一度きりじゃない。次回は、その話を書きます。
私はいま、この考え方で「DoubleHub(ダブルハブ)」という日記のアプリを作っています。シリーズの最後に、その現在地も書きます。
次回:② 思い出すたびに、もう一度味わえる